ベトナムの漢文説話における鬼神譚について巡る ――『今昔物語集』との比較

Nguyễn Thị Oanh

 要旨

 ベトナムの漢文説話は決して数は多くはないが、中国、日本と同様、早くから鬼・妖魔譚があり、共通する話も多い。ベトナムの漢文説話における鬼・妖魔譚の研究を深化・進展させるためには、ベトナムの代表的漢籍(漢文説話と漢文資料)を多方面から研究する必要がある。その手段として、ベトナム・日本ほか漢字文化圏の鬼・妖魔譚における鬼神世界、妖怪文化などが、中国の志怪、伝奇小説などの影響下でいかに形成されたのかを比較検討するのは、有力な研究方法である。

「ベトナムの漢文説話における鬼・妖魔譚について――『今昔物語集』との比較」というテーマを研究する目的は、まず、(1)人間と鬼・妖怪との結婚譚、(2)鬼退治や鬼守護などの人間と鬼・妖怪との遭遇譚、(3)人間と鬼・妖怪との夢での遭遇譚を分析して、ベトナムの漢文説話における鬼・妖魔譚の型を明らかにすることである。次に、『今昔物語集』巻第二十七、本朝付霊鬼などの日本説話を中心に比較して、共通点と相違点を分析するとともに、両国の民間文学の創造性、民族性に着目し、日本で鬼・妖魔譚が多いのか、なぜ、日本では妖怪文化が発達し、ベトナムでは妖怪文化が形成されなかったのかを明らかにする。

 

 

 

ベトナムの漢文説話における鬼神譚について巡る

――『今昔物語集』との比較

 

                                                                                                             NGUYEN THI OANH

 

 

 Topics:    demon, ghost, deep-seated grudge, human relationship

 

                  人間と鬼・幽霊との遭遇譚、型、共通点、 相違点、創造性

 

はじめに                                           

 

ベトナムの漢文説話の数は決して多くはない。中国、日本と違って、ベトナムでは鬼・妖魔譚が出現したのは遅かったが、民間伝承や伝説を収集・編纂した11 世紀―14世紀ごろ作品に見られる。中国と日本と共通する話も多い。ベトナムの漢文説話における鬼・妖魔譚の研究を深化・進展させるためには、ベトナムの代表的漢籍(漢文説話と漢文資料)を多方面から研究する必要がある。その手段として、ベトナム・日本などの漢字文化圏の鬼・妖魔譚における鬼神世界が、中国の志怪、伝奇小説などの影響下でいかに形成されたのかを比較検討するのは、有力な研究方法である。

200811月、東京の国文学研究資料館で開催された国際シンポジウムで「ベトナムの漢文説話における鬼退治」というテーマで発表した「1」。その発表ではまず、①ベトナム漢文説話における「鬼神」に関する説話数について;②ベトナムの漢文説話における鬼神観念について;③ベトナム漢文説話における人間と鬼神との出会いに関して;④ベトナムの漢文説話における「鬼退治」の説話について『嶺南摭怪』を中心に)の四つの問題について論じたが、学会発表の時間的制約により、ベトナムの漢文説話における「鬼神」について概説するに止まり、「鬼退治」を中心に比較したものの、日中の「鬼退治」の先行研究として、河野貴美子氏のものだけを取り上げて、比較した「2」。他にも『日本霊異記』、『今昔物語集』など研究は多くあるが、それにほとんど触ることができなかった。

そこで、本研究では「ベトナムの漢文説話における鬼神譚について巡る―『今昔物語集』との比較」というテーマの下で、はじめにベトナムの漢文説話における鬼神観念について、次いで、ベトナムの漢文説話における人間と鬼神との出会い、最後にベトナム・日本・中国の説話はどうような共通点と相違点があるのか、また、両国の民間文学の創造性、民族性を考究し、その特徴を明らかにする。

日中比較の先行研究としては、河野貴美子氏が『日本霊異記と中国の伝承』の中で「鬼説話への態度 ― 『今昔物語集』の話末語との比較」について述べている。また、『今昔物語集の世界』の中で小峯和明氏が『今昔物語集』の空間や場について詳細に言及している「3」。『今昔物語集を学ぶひとのために』の中で中島美彌子氏が「鬼、神、霊、天狗」について、明らかにしている。しかし、『今昔物語集』の研究は余りに多く、今回それらを十分に参照することができないのは大変残念に思っている。今後の研究においてあらためて、補充する所存である。

テキストは、主に漢喃研究所が所蔵している漢文説話と『今昔物語集』は新日本古典文学大系、全五冊(岩波書店)、日本古典文学全集、全4冊(小学館、本朝部のみ)と『捜神記全訳』(貴州人民出版会社、1990年)に拠った。

1.ベトナムの漢文説話における鬼神観念について

2年前に東京国文学研究資料館でベトナム漢文説話における「鬼神」、「妖魔」、「妖怪」などの観念について論じた。ベトナムで一般的に知られる「鬼神」、「妖魔」、「妖怪」とは、死者の亡霊を意味すると考えられる。人間が亡くなった後も存在し続けるのは霊魂である。霊魂は他の世界にいながらにして、人間の世界に様々な影響を与える。鬼神には大力、飛行、変化などの能力が有り、人間に幸福をもたらしたり、危害を与えたりする。また、鬼神は吉凶の兆を知らせたり、人間の考えを理解したり、また動物に命令を与えたりする。人間に幸福をもたらす霊を「神」、「神霊」、「鬼神」などと称し危害を与える霊を「魔怪」「魔鬼」と称している。ベトナム漢文説話では「鬼」というのは「魔怪」を意味する以外に「牛頭馬頭」の姿をする地獄の鬼をも意味するが、恐怖の対象となるヨーロッパやギリシアなどの吸血鬼や人を食らう悪鬼の姿はあまり見られない。

ベトナムの歴代の儒家の鬼神観念については『世界文学の中の日本文学―物語の過去と未来―』に言及したが、その本で述べた部分を纏めて、述べない部分を補充し、以下のように再説しておきたい。

陳長期1329年に成立した『越甸幽霊集』「4」の序で、著者リーテースェン(李済川)は鬼神について言及している。「古代の聖人がいうには聡明で正直な者が神と称するに足りるのであり、淫神や邪神を濫りに神と称してはいけない」と。ここでいう「正直」とはつまり、国難を除く手助けをするために亡くなった者が神と称され奉られるということ、正直ではない者や邪悪な者は濫りに神と称してはいけないということである。人間の邪鬼への尊崇については直接言及しないが、当時、神と同時に鬼も祀られていたのは事実である。11世紀に中国から独立した最初の王朝である李朝(10101225)では中国の圧力に対抗するためにより強大な政権が求められ、民族精神の高揚を目的としつつ太古の昔から伝えられる伝説や伝承を記録し、歴史書や文学作品を編纂した。『越甸幽霊集』は神々に関する説を27篇(正編)を収めるが、内容としては夢の中で神々が王侯に託宣を下し、賊を平定し、国難を除くたすけをし、その功により神々が位を授けられるというのがほとんどである。同書の序に「あるいは精粋な山川の神々、あるいは優れた人物の霊魂である。その神々が当世は気勢をあげ、来世には英霊を総べる」と書いているように山川の神祇と国難を除く手助けをする人物は当世、気勢をあげるだけでなく、来世にも強い影響を与えると考えられていた。

16世紀に至ると黎朝期の儒家が儒教思想の立場で鬼神について引き続き議論している。『伝奇漫録』「龍庭対誦録」「5」は鬼神について以下のように述べている。「災難を止める者を祀り、大患を除く者も祀るというのは祭祀の恒例である。祀られる鬼神は自分の名称を守らなければならない。どうして、人間の供え物を受けている鬼神が人間に危害を与えたりするか(中略)。そこで著者は唐の(荻)仁傑が河南を巡撫して、皇帝に千七百の淫祠の撤去を奏上したという故事を引用し、当時のベトナムにおけるでたらめな祭祀を暗喩している。

『伝奇漫録』の作者―グエン・ズ- によると、ベトナムでの祭祀は中国という祭祀の根から形成されるから災難を止める者を祀り大患を防ぐ者も祀るというのは当然であるが、なぜ、人間の供え物を受けている鬼神が人間に危害を与えたりするか不思議である。それで、グエン・ズ-はまた唐人の仁傑が淫祠を撤去するように奏上したという話の通り、ベトナムで淫らに祀っているのが指摘された。

18世紀に至ると、儒家達が以上の鬼神尊卑観念について引き続き議論している。『雨中隋筆』「6」の中でファン・ディン・ホ―は鬼神について以下のように述べている。「昔、祀るというのは神祇を祀る以外、功績と徳行をもつ者をも祀り、災難を止め、大患をふせぐ者も祀った。畏、圧、溺によって死んだ者さえ弔わないのに、そうしたものまで、どうして村を挙げて奉ることができよう」(古之祀,自神祇之外有功德者祀之,能禁大災捍大患者祀之,至於畏壓溺三者且死不吊況舉邑而奉之乎)と。

神霊を祀るというのは神祇、並びに、功績と徳行をもっている者、災難を止め、大患を之防ぐ者を祀るのが当然であり、怖くて亡くなったり、圧して亡くなったり、溺れてなくなった三種の死者が全村で祀られるのは可笑しいことではないかということである。彼は人間の邪神への尊崇について指摘しているのではなく、例として邪神を祀ることを挙げ、その点を指摘している。例えば、本書の「馬公主廟」では、極めて淫らな公主が亡くなって神霊になり、人間が人間の生殖器のような果物の種を供え物として祀ると幸福をもたらしたという話がある。彼がその話の最後で「こんな淫らな女性を千秋に祀るのはドン・チョウ(東潮)7のファン・ニャン(PHAM NHAN)邪神8と同様、極めて可笑しいことである」と指摘するように、依然として当時の信仰には、神と鬼の両方を祀ることがあったことを物語っている。人間は優れた人物を尊敬するときにその霊を祀るが、邪悪な人物に恐怖を抱き恨む時にもその亡霊を祀る。

18世紀に於いても、儒家達が鬼神存在観念について引き続き議論している。有名な儒家レー・キ・ドン(LE QUY DON)氏(1726-1784)が鬼神尊卑観念について触れている。『見聞小録』の「霊蹟」の中で彼は鬼神について以下のように述べている。「聖人は鬼神について言及していないが、鬼について、よく記録したのは『左伝』である。一般的に言うと、宇宙は陰気と陽気しかない。理と気が存在するのをよく理解したら、鬼神が存在すると分かった」。

黎王朝に成立した『見聞録』「9」の中でブー・チン(VU TRINH)は「妖怪」について以下のように述べている。「匹夫と匹婦は鬼を恐れて怖いのが当然だが、知識を持っている人は鬼が存在しないと考えた。しかし、世界に鬼が存在しないとはいえない。取り残されたざる、壊れたほうきが顔を黒く偽装し魚を盗む。日が明けるともとの正体に戻る。鬼が存在するのが当然だ、なぜ取り残されたざる、壊れたほうき、すりきれた洋服などで恐怖におののくのか」。

阮王朝(18021945)に至ると儒家達が鬼神について引き続き議論している。1857年ごろ成立した『雲袋小史』10「那山奇跡」の中で、ファン・ヂン・ヅク(PHAM DINH DUC)は以下のように述べている。「孔子は怪異について言わないが、石が話せるという話が記録されたのは怪異が常のことではなくても、宇宙では怪異がない事はないであろう」。

李、陳朝に成立した漢文説話における鬼神に関する説話と違って、黎朝と阮朝に成立した漢文説話の中では、鬼神に関する説話数が増加するばかりではなく、「神霊」と「邪神」の差別意識が曖昧になってくる。外国に対する危機が無くなった時期において、英雄を崇拝する代わりに「鬼退治」の偉業を称えるようになる。例えば、人間の力に負けた神霊、上品を極めて没落し威厳をなくしてしまった神霊も存在する。また、人間に判決を覆された神霊、人間に騙された神霊さえ存在する。

そのような状況は17世紀から19世紀まで続く。当時ベトナムでは内戦と政権に対する抵抗運動が続き、経済は不景気で、難を避けて田舎を出て別のところに移住したり、道路で餓死したり、また、強盗がはびこる不安定な社会になってしまったため、尊崇するべき神霊像が崩壊してしまったのである。

2.ベトナムの漢文説話における人間と鬼神との出会いに関して

研究者によると、宇宙には人間と鬼神が伴に存在する。人間と鬼神の出会うには三つの類型があり、①人間と鬼・霊魂との結婚、②鬼退治や鬼守護などの人間と鬼・神との遭遇、③人間と鬼・妖怪との夢での遭遇という類型である。ベトナムの漢文説話には以上に述べた三つの類型があるが、一番多いのは夢で出会うことである「9」。

2.1.人間と鬼神との出会い

2.1.1.直接的に出会い

(一)人間と幽霊との通婚

ベトナムの漢文説話において幽霊とが結婚する話は少なくない。男女夫婦は人間社会の成立と人類繁殖の根本であるから、説話の世界でも婚姻ということは最も需要な主題もしくはモチーフをなしている。主として男性が死せる女の幽霊と契るという怪異譚が多く、結婚相手を渇望する幽霊が人間と化身し、相手と結婚してしまうという話がある。例えば、主人公のチン・チュン・ゴ(程忠遇)は亡くなった美しい女性に会って、親しくなったら、誘われて、女の住宅を訪ねていってしまった。夜中にある「茅屋」に辿り着くと男は生臭さを感じた。火の光でみると小さい床があって、その上に御棺があり、お棺の上に赤い布に「葉卿之柩」という黄色い字が書いている。見ると男はそれと見て、怖くなり、慌てて逃げた。このような描写により、その場で幽霊であることが理解される(『伝奇漫録』の「木綿樹伝」)。また、若くて綺麗な女性が正室に打たれて亡くなったが、霊魂は消えずに美人に変身し、男性と通婚し、その後、道士に符で殺される話(『伝奇漫録』の「昌江妖怪録」)がある。また、主人公のグエン・チョン・テウン(阮仲常)という人物が夢の中で、洞庭湖で美人に会う約束をする。その後、使者として中国に行って、洞庭湖で亡くなってしまう話(『桑滄隅録』「阮公仲常」)もある。

(二)神守護や鬼退治などの人間と神・鬼との遭遇、

神は常に人間の世界を遊行し、寺院、祠などに宿し、人間の供え物を享受するため、神が人間に頼み事をされたり、制御されたり、競争するべき際に人間のことを手助けするという話もある。例えば、主人公のクオン・バオ(強暴)は魚や蝦を取って供え物として常に灶神に差し出していた。それで、灶神は「強暴」が雷神に打撃されることを早めに知っていたので秘かに知らせた。「強暴」は知らせてもらった通り、雷神を退治することができた(『公餘捷記』の「強暴大王」」。

また、人間の供え物を享受した鬼が、疫病にかかった人々を死から救った。主人公の黎遇は田舎へ帰ると、伝染病が起こっていた。家族の皆が面通しないほうど重い病気にかかってしまった。黎遇はご馳走を作って、庭に置く。夜になると、空から降りた鬼たちはご馳走を食べてしまう。食べ終わってから、鬼たちが黎遇の家族の人を釈放した。後、黎遇の家族の皆の病気が治った(『伝奇漫録』の「夜叉部帥録」)。

亡霊は人に恩返しする場合もある。昌氏は毎年、無名のお墓の土盛りを築く。亡霊は儒家に変身し、彼に衣服をあげたり、親戚の家まで案内したり、ご馳走を食べさせたりするなどの恩返しをする(『婆心懸鏡録』の「築墓報酬」」。

ベトナム漢文説話には、人間が鬼に危害を加えられる話が少なくない。鬼が害を加える話には三つの類型があり、人を病気にさせたり、人をからかったり、人と性交したりする。冤罪者の魂の死霊が死に至らしめた者はその周辺の者に復讐を及ぼすとも信じられるようになってくる。例を挙げると、年配の女優がお寺の龍の神様に打たれて亡くなった。鬼になってからお寺の後ろにある榕樹に泊り、往来するハンサムな男性をからかう。気を悪くした男性は病気になって死んでしまう (『雨中随筆』の「榕樹」)

2.1.2.間接的に出会い

ベトナムの漢文説話で人間と鬼神との出会いが一番多いのは夢における幽霊や神との出会いである。「夢」によって未来が予告され、過去が明らかにされ、現在がとらえ返される。夢によって人々は神仏や死者の姿を見、その声も耳にする。ベトナムの漢文説話における夢で人間と幽霊との出会う譚は二つの類型がある。一つは国家的説話である。夢の中で神々王侯に託宣を下し(くだす)賊を平定し、国難を手助けをするとか、洪水、旱魃が起きたときにも手助けをして、その功により神々が位階を奉られる。神々を加護した王権が賞賛される目的で話すというものである。例えば、呉王が国立する時に北方から外敵に侵略されるのを大変心配していた。夜、夢を見て、白髪で、さっぱりとした服装をしている老人が出現して、賊を平定する者を加護すると言った。そのうち、賊を平定することが出来るようになったから、前よりも大きい詞を建てて奉られている (『越甸幽霊集』の「ボーカイ大王」)。

もう一つは個人的説話である。普通の人間は夢で幽霊と出会うのは個人的で、民族や共同体を代表することはない。科挙試験の審査の人の夢で病気で無くなった女が出現して、結婚する予定だった男性の科挙試験の合格を頼んだという話しがある。(『見聞録』の「報恩塔」)。

2.2.人間と鬼神との出会う場所

人間と鬼神とが出会う場所は亭、廟など人々が集まるところの他に巨樹、坂なども多いと思う。例を挙げたい。「二人の夫婦はある日供え物(紙製の供え物)を売りに行って、帰る途中、雷首坂に至ると、雨が降ってきた。道がまだ遠く、夕方になって、暗くなったので、巨樹に雨宿った。彼らは雷電の閃光で、木の下に一つの別荘があるのが突然見えた。宿泊しようと思い、別荘の主人に一泊泊めてもらった。夜半、別荘の主人が疫病で死亡する人々の名簿を作るという話を聞き、大変怖かった。朝になると、寝たところは別荘ではなく、坂の隣にある二枚のバナナの葉であった。驚き慌てて、田舎に帰った。翌年、疫病が起こって、道で死亡した人は多かった。あの夫婦がその夜に聞いた話の通りだった」(『蘭池見聞録』の「雷首坂」)。

研究者によると、大昔の人間の観念では神霊が大樹に憑依している。また、当時何か異変が起こると、必ず大樹に憑依した神霊が降臨して、お告げを降ろす。また、人間と妖怪とが出会う場所は樹のところも多い。たとえば、結婚相手を渇望するあまり、人間が鬼神と結婚してしまうという話がある。美人と結婚し、美人が霊鬼に変化したことが分かっても離れられず、結局亡くなってしまう。亡くなると鬼に化して、巨樹に泊まって、人間に害を与えるという話がある(『伝奇漫録』の「木綿樹伝」)。またベトナム漢文説話には、人間が鬼に危害を加えられる話は少なくない。鬼が害を加える話には三つの類型があり、人を病気にさせたり、人をからかったり、人と性交したりする。例を挙げると、年配の女優がお寺の龍の神様に打たれて亡くなった。鬼になってからお寺の後ろにある榕樹に泊り、往来するハンサムな男性をからかう。気を悪くした男性は病気になって死んでしまう (『雨中随筆』の「榕樹」)。また、「京(みやこ)で遊学する時にヂン・ガンという宿屋に泊まった人がいる。近くにダーという木があって、妖怪がとまって、よく人をからかっていると聞かされた(『蘭池見聞録』の「樹妖」)。

また、「樹」に鬼が憑依するところだけでなく、「樹」が人間と同様、樹を斬られると血が出てくるというモチーフはベトナムの漢文説話に見られる。『嶺南摭怪列伝』の「蛮娘古伝」である。日本と中国と同様、豊かな森を保有する国のベトナム文化は樹木によっている部分がきわめて大きい。これは樹木に霊が宿すという信仰から発している。

・「亭、寺院、堂、家」は妖怪が宿るところ

日本や中国と同様、亭、寺院、堂、部屋の隅は怪異や妖怪、妖魔の起こりやすい場所である。夜そこに宿した者が害を受けたり、あるいは夜毎に死者が出るといった建物の話はベトナム漢文説話においてもしばしば見受けられるものであり、特に『嶺南摭怪』の「金亀古伝」11にはそうしたモチーフが散見される。「山の傍に館がある。館の主の名前は悟 空という。白い鶏に変身した女性が居り、妖気に満ちている。人々が往来し、夜その館に宿泊すると妖精は千形万状に変化し殺害する。死んでしまう者も多い。その話において妖怪が発生する場所は、日本や中国と同様、亭、廟、お寺、宿屋、役所など衆民が共同生活するところである。また、死者の亡霊が巨樹に泊し、人を害する話も多い。

また、「お墓」「墓地」「塚」「棺」は鬼がよく出てくる場所である。

「塚」などは『伝奇漫録』の「木綿樹傳」を中心に登場する。先に述べた主人公のチン・チュン・ゴ(程忠遇)は亡くなった美しい女性と出会う場所はお棺があるところである。その場で幽霊が宿すことが理解される。

人間は鬼に会うと怖くて、反抗することさえできず、鬼の言いなりになる話もある。例えば、丁氏と一緒に酒を飲む人が木に輪切りの紐をかけて、丁氏にその紐を通り抜けるよう誘い、通り抜けると池のところに連れて行かれ、池に倒れると目覚めたという話(『雲嚢小史』の「隘鬼」)。鬼に殺されるのは「無警戒や不用心の場合が多く、機転を働かせ、果敢に挑む場合には難を免れること示している。鬼を退治することができる人は勇敢、果敢、的な人である。ベトナムの漢文説話にはそのような「鬼退治」に関する説話も少なくない。次にベトナムの漢文説話における「鬼退治」の説話について探ってみる。

3.ベトナムの漢文説話における「鬼退治」の説話について『今昔物語集』と『捜神記』を中心に比較する)

私の鬼退治の論文は『世界文学の中の日本文学―物語の過去と未来―』に掲載されている。第二章、ベトナムの漢文説話における鬼退治の説話について(『嶺南摭怪』を中心に)で述べたように、『嶺南摭怪』の「金亀古伝」の安陽王が城を造った際の故事として語られる鬼退治の内容がこの上三縁『日本霊異記』説話と類似のモチーフを有する説話としてとらえ、河野氏の論考を辿りつつ、鬼退治の説話に関する項目を参考に、『嶺南摭怪』の「金亀古伝」における「鬼退治」に関する各モチーフについて考察した。その結果は『嶺南摭怪』の「金亀古伝」における「鬼退治」は中国、日本の説話とは違う点がある。最も異なる点は、鬼と格闘する場面がないところであると指摘したい。

ベトナムの漢文説話における鬼退治の説話数は多くないが霊鬼や妖怪に襲われたり、それを退治したりする話が類型的に収められている。また、『今昔物語集』と『捜神記』の中の鬼退治説話は『日本霊異記』上三縁の内容を以下の要素を生み出した基盤としてとりあげたものであるが、ある決まった建物に鬼魅が現れるというモチーフを有する説話を取り出し、説話の内容をまとめたのが次の表である(表を参照ください)。

3.1.鬼が出てくる建物

表をみると夜毎に死者が出るといった建物だけでなく、妖怪が発生する場所は、日本の『日本霊異記』、『今昔物語集』や中国の『搜神記』と同様、亭、廟、お寺、宿泊、役所など衆民が共同生活するところである。また、樹、坂、などの死者の亡霊が泊し、人を害する話も多い(第2.2「と鬼神との出会う場所」の参照)。

3.2.鬼退治する人の性格

中国、日本と同様、「鬼退治」する人は鬼神を恐れない勇敢な人物である。『嶺南摭怪』、『公 』などは中国の説話と伝承に見られる「勇敢」「賢き心や智」というモチーフを取り入れたのだと思われるが、また、そのモチーフは世界の英雄伝説、伝承によく見られる。

しかし、『搜神記』と違って、『今昔物語集』とベトナムの『 』、 』、『雲袋小史』において鬼退治説話の話末部に評語がある(『嶺南摭怪』においては話末部の評語がない)。それらの説話は中国説話のモチーフを利用して形成されているが、以上挙げたベトナムの漢文説話の話末部の評語は『今昔物語集』巻第27とは違って、鬼退治する人物の「強力」、「勇敢」、「賢き心や智」などを直接評語に賞賛しない。 』の「鬼闘」の話末部の評語は次のように語られる。

蘭池漁者は「匹夫と匹婦は鬼を恐れて怖いのが当然だが、知識を持っている人は鬼が存在しないと考えた。しかし、世界に鬼が存在しないとはいえない。取り残されたざる、壊れたほうきが顔を黒く偽装し魚を盗む。日が明けるともとの正体に戻る。鬼が存在するのが当然だ、なぜ取り残されたざる、壊れたほうき、すりきれた洋服などで恐怖におののくのか」」と言う。

『今昔物語集』の巻2731話では主人公の三善清行が鬼魅のいる宅をあえて買い収り、そこへ赴き鬼魅に対して理論で対抗して、これを退去させる。評語は次のように語られる。

「当時の人はこれを聞いて、院を恐れ敬い、「やはり並みの人とは違っておいでだ。ほかの者ではこの大臣の霊に対して、こうも物おじせず応対はできないであろうよ」と申した」

同様の評語が巻2710話、第34話にもみられる。

「この弁は武人の家柄の者ではないが聡明で思慮深く、物おじしない人物であった」

「これは弟が思慮深く、それで正体を射現したのだと、人々はほめたたえた」

ベトナム漢文説話における鬼退治説話の中で鬼退治する人物が褒められなかった。理由は上に述べたように、ベトナムでは内戦が続き、経済は不景気で、安寧も悪いう不安定な社会になってしまったため、尊崇するべき神霊像が崩壊してしまったためと考えられる。

3.3.鬼魅退治の武器

統計によると「鬼退治」する武器が農具の鋤、鐮 であるし、鉄製の杖、木製の杖、刀、矢など護身用のために所持しているものが多いが、『搜神記』と『今昔物語集』とは違う「鬼退治」する武器は五つの色の糸である( 』の「 記」)。 ベトナムでは旧暦の55日の端午の節句に鬼魅、蛇蝎を防ぐために五色の糸で作った小さい袋を腕に掛けるという習慣がある。また、儒家が持っている筆も武器である(『桑滄隅録』の「武公鎮」)。ベトナムと中国とは違う、『今昔物語集』における鬼退治の武器はお米である。米は単なる植物ではなく、特別な力の込められた神聖な植物と考えられていた(『今昔物語集』巻27の「幼 十」)

3.4.鬼魅退治の方法

(一)鬼との格闘

こうして、勇気あるいは腕力を持った英雄が意を決して怪亭に泊まった夜、それまで危害を与えてきた鬼魅が退治されることになるわけである。河野氏の『日本霊異記』の「得電之喜令生子強力在縁」(以下、本研究引用の『日本霊異記』の条目は上記に同じと『搜神記』の「謝鯤」の比較によると、『日本霊異記』の鬼退治の段の形成にはこの『搜神記』の「謝鯤」のような志怪小説のモチーフが取り入れられていったものと考えられる。『霊異記』と「謝鯤」とには以下の三つの共通点がある。

・鬼と建物の内外でつかみ合い、引っ張り合う

・鬼が身体の一部をもがれて逃げ帰る

・鬼の血の跡を翌朝たどって正体を確認する。

河野氏の分析による鬼退治の方法を見ると『日本霊異記』の鬼退治と中国の『搜神記』の各話のモチーフとの共通点は非常に多いのである。しかし中国の説話はある特定の説話が祖型とされて翻案として形成されたとは考え難い。また、『霊異記』と中国の説話との共通点も発見されるのである。『日本霊異記』の鬼退治説話はそれからの中国の伝承世界の持つモチーフの移入よって生み出され形成されたものと思われる。

ベトナムの『嶺南摭怪』の「金龜古傳 」と他のベトナムの漢文説話の鬼退治方法は『日本霊異記』と『搜神記』の「謝鯤」と比べると上記の三つの共通点がないが、15世紀から19世紀までに成立した漢文説話の中には河野氏に挙げられた「鬼の格闘」「鬼の血の跡をたどって正体を確認する」「鬼の再来」というモチーフがよくみられる。

河野氏によると、『日本霊異記』には「鬼の再来」「燈の使用」「血をたどる」の各モチーフが見えるが、中国の鬼魅退治の鬼退治の段における各モチーフを比較すると異なるところもある。例えば、『搜神記』の巻18、第427と巻9、第105に「燈の使用」というモチーフがあるが、「血をたどる」というモチーフはない。巻19、第429と巻18、第439に「燈の使用」のモチーフはないが、「血をたどる」というモチーフがある。しかし、いずれの説話においても、最後には「鬼の正体」のモチーフが何にであったかが明らかにされる。

注目されるのは「鬼の跡をたどる」というモチーフである。それは『伝奇漫録』の「東潮廃寺録」である。次のように語られる。

「陳王朝 (1314世紀)に寺院がたくさん建てられたが、戦争で壊れて、十分の一しか残っていない。県長はあるところで、強盗に略奪された。撃滅することができなかったため、鬼魅にからかわれているのではないかと思った。ある日の夜、狩猟の人が二人の強盗を見て、弓で射当てて、村落の人々を呼び、松明を燃やして、血の跡をたどり追いかけると壊れたお寺に至った。そして矢があたった二つの神像を発見した」。

この話のモチーフは『今昔物語集』と同じである『今昔物語集』と『捜神記』の三つの共通点は『伝奇漫録』にはあてはまらないが、鬼と人と出会う場面に「血」が残っているというモチーフは『今昔物語集』にもある。それは巻27の「幼 」と「仁 殿 」である。以下のように語られる。

「夜毎に仁寿殿の御灯油を盗み去る南殿の妖怪が起こった。源公忠が待ち受けて蹴飛ばし(けとばす)、火を灯してみると足に血がついていた。夜が明け、血の跡を辿ると塗籠へと続いていたが中に何も無かった」(第十)。

「ある人が幼児(おさなご)を連れて下京に方違えをした一夜、幼児の枕元を小妖魔十人ほどが騎馬で通過したのを、乳母(うば)が打撤の米を投げつけて退散させた」(第三十)。

また、「鬼再来」というモチーフを挙げると『嶺南摭怪』の「金 のようなベトナムの漢文説話に「鬼再来」のモチーフが見られる。

『嶺南摭怪』にも「鬼の再来」というモチーフはあるが内容と順序が中国と日本とは全く異なる。『嶺南摭怪』では次のように描かれている。

「晩になって、王は金亀と一緒に越裳山に至ると鬼精が鶚鳥に変化し、手紙を携えて栴 檀の樹の上に飛んで行った。すると亀は鼠に変化し、栴檀の樹に登って、鳥の足をかじった。口に含んでいた手紙は地に落ちた。王がその手紙を取ってみると、手紙は虫にかじられていた。それから、妖怪がいなくなった。王は又城を築くと約半月で城ができた

また、公餘捷記 』の「范鎮杜汪記」に「鬼再来」というモチーフがみられる。

段林という村に女の妖精がいて、よく人をからかっている。ドー(杜)さんが若い時に窓の近くで勉強していると窓から手が差し込まれるのを見た。県のある法師に五つの糸で結ぶと妖精が出現しないという「鬼退治」の方法を教えてもらった。翌日、妖精がまたきた。彼は法師が教えた通り、五つの糸で結ぶと妖精は手を引き出すことができなかった。

(二)鬼との回答

・鬼神の力で勝つ(金亀のお陰)、対話

本節では、『嶺南摭怪』の「金亀古伝」の安陽王が城を造った際の故事として語られる鬼退治の内容がこの『日本霊異記』説話と類似のモチーフを有する説話としてとらえ、河野氏の論考を辿りつつ、鬼退治の説話に関する項目を参考に、『嶺南摭怪』の「金亀古伝」における「鬼退治」に関する各モチーフについて考察する。

夜半ごろ、鬼魅が外からやって来て「だれがこの館に泊するのか。はやく門をあけないか」と叫んだ。金亀が「おまえこそ、ちりぢりに分散してしまえ」と怒鳴った。鬼魅は脅そうと火を放ったり、千形万異に分散、変化した。金亀はまた「おまえたちは鬼魅妖精であるから、館に入って人を追いかけてはいけない」と叱った。鶏が鳴く時間になって、妖精は逃げ散ってしまった。

河野氏は『日本霊異記』上三縁において鬼退治と話の展開が『搜神記』巻18、第426「宋大賢」と同じであり、中国の説話においてはいずれも鬼魅との間に言葉が交わされて、特に説話では「鬼の回答」を聞き、それを人間が真似をするという特徴的なモチーフを有していると指摘している。ベトナムの漢文説話の鬼退治説話にはこれらと全く同じ話型をもつものが伝えられているのである。しかし、以上の『嶺南摭怪』の「金亀古伝」に鬼と回答する人物は人間ではなく金亀である。ベトナム人は鬼退治は人間にできないことと思っており、鬼神に依頼すると考えるのである。

    人間の智慧で勝つ

金亀が王に跡をつけさせると、鬼魅は七曜山に至って、すべて山中に隠れた。

翌日、館主は他の者と一緒に館に行って、宿泊していた者の死体を引き取り、埋葬しようとしたが、王は落ち着いて館主に「我は安陽王である。往来する民のためにこの館にいて、鬼を殺す」といった。館主は平伏しつつ王に「王様は安全をもたらす聖人です」と申し上げた。館主は霊術で衆民を救って頂くようお願い申し上げた。王は「白い鶏を殺して祀ると妖精は自ずと分散してしまう」といった。悟 空は教えられた通り、帰ってから白い鶏を殺した。すると女の子が突然亡くなった。王は人に命じて、七 山にお墓を掘らせた。古い楽器と骸骨を得て、焼いて砕き灰にして川に捨てた。すると鬼が滅んだ

また、「鬼と回答」というモチーフは『嶺南摭怪』、 』などのベトナムの漢文説話には次のような箇所がみられる。

「悟空は館に泊まりに行って、王がそこに宿泊しているのを見ても、その人が王であることが分からなかった。悟空は「この館には常に妖精がおり、夜になると人を殺害するから、宿泊してはいけない。しかも、今日はまだ暗くないから遠いところに行って、宿泊なさい。そうしないと災いと迷惑を被るかもしれ」と言った。王は笑いながら「生も死も運命だ。魑魅が何をしようとあえて私と対決しようものか。恐れるに足らない」と言って泊まった」。

これと同様の行動様式が、『搜 』の巻18、第438の「安 怪」にも次のような箇所がみられる。

「安陽県の南方に亭があって、夜に宿泊することができなくて、泊まると殺害される。術数ができる書生はその亭にと宿泊しようとするとその村の人々に「ここは宿泊できず、ここに泊まる人で生き残る人がいなかった」といった。書生は「構わない。対決することができる」と言って、泊まった」。

そして、『今昔物語集』の巻27、「三 」にもつぎのような箇所が挙げられる。

「善宰相は自分の家がなかったのでこの家を買い取り、吉日を選んで、移転しようとしたが、親戚がこのことを聞いて「わざわざ妖怪の出る家に移ろうとするのはまことにばかげたとだ」ととめた。だが、善宰相は聞き入れず、十月二十日ごろ、吉日を選んで移った」。

中国、日本と同様、「鬼退治」する人は鬼魅、妖怪を恐れない勇敢な人物であるだけではなく、強力な、智慧をもつ素質、人柄、能力人である。ベトナムの漢文説話における鬼退治をする人物は李・陳王朝(11世紀―14世紀まで)の『嶺南摭怪』に出る「龍君」のような神話的人物であるし、11世紀に中国から独立した李朝、陳朝は中国の圧力に対抗するためにより、上の強大な政権が求められて、『嶺南摭怪』の「金亀古伝 」に出た王のような人物の権力も称揚された。逆に、黎王朝(16世紀―18世紀)に至ると、この時代に成立した漢文説話に出た鬼退治人物は道士、陰陽師、お坊さん以外、一般人がほとんどであるが、鬼退治説話には鬼退治した人物は褒められていない。

しかし、『今昔物語集』では鬼退治をした人物を「並の人とはちがっておいでだ」(第2話)、「賢き心と思量」(第10話)、「有り難い心」(第35話)と讃える言葉で結ぶのである。

「当時の人はこれを聞いて、院を恐れ敬い、「やはり並みの人とは違っておいでだ。ほかの者ではこの大臣の霊に対して、こうも物おじせず応対はできないであろうよう」と申した」(第2話)。

「この弁は武人の家柄の者ではないが聡明で思慮深く、物おじしない人物であった」(第10話)

「これは弟が思慮深く、それで正体を射現したのだと、人々はほめたたえた」(第35話)。

以上述べたように、『嶺南摭怪』、 』などベトナムの漢文説話における鬼退治は中国と日本と共通点があるし、違う点がある。最も異なる点は鬼と格闘する場面がないところである。また、鬼退治する人物の武器は中国の『搜 』と違って、五色の糸と筆である。『今昔物語集』は中国の『搜 』と違って、鬼退治する人物の武器は米である。ベトナムは米、塩を播いて、鬼を防ぐことができるという信仰があるが、説話にはまだ見られないということである。

・妖怪の正体についての議論

周知のように、中国の『捜神記』の巻19の第445「孔子談五酉」では孔子が妖怪について以下のように評論している。「一般的にいえば六畜の物および亀、蛇、おおうみがめ、草、木の類は久しくなると神が憑依し、妖怪になることができるため、五酉という。五酉とは五行の考えに何所の方にも妖怪がある。酉とは老という意味で、物は老になると妖怪になる。妖怪は殺しても大丈夫でしょう。患う必要はないでしょう」「夫六畜之物、及亀、蛇、鷔、草、木之属久者神皆憑依、能為妖怪、故謂之「五酉」。「五酉」者、五行之方、皆有其物。酉者、老也、物者則為怪、殺而則已、夫何患焉」。このように、ベトナムの儒家レ・キ・ドン(LE QUY DON)とブー・チン(VU TRINH)などが述べた妖怪に関する理解は『捜神記』にとても近い関係にあるものと指摘できると思う

ベトナムの漢文説話だけではなく、『今昔物語集』の中に巻27本朝霊鬼の第5、第6に記らせているように「水の精が人になったのだと人々は言い合った」(第5)「物の精人はこのように人になって現れるものだと知った。(第6)のように、中国の『捜神記』と同じ様なの表現が見える。

しかし、人になって、人をからかった物の妖怪はとり残されたざる、壊れたほうきなどの精であるのがベトナム人の独特な考え方で、孔子の妖怪についての理解の延長として解釈することができると思う。また、人になって、特に人を脅えさせる物が水の精であるのも日本人の創造的考えでないかと思う。もちろん、水精という神はベトナムの『嶺南摭怪列伝』にも出てくるが、「翁は水になって、溶け、消えてしまった」というのは日本の独自な考えではないかと思う。

おわりに

以上、ベトナムの漢文説話における妖怪観念と「鬼退治」説話について言及したが、李、陳朝に成立した漢文説話における鬼神に関する説話では「神霊」と「邪神」の差別意識が曖昧になってくる。黎・阮朝に至ると、外国に対する危機が無くなった時期において、英雄を崇拝する代わりに「鬼退治」の偉業を称えるようになるが不安定な社会になってしまったため、尊崇するべき神霊像が崩壊してしまったのである。

また、ベトナムには鬼退治の漢文説話は決して数は多くはないが、中国、日本と同様、早くから「鬼退治」の説話があり、共通する話も多い。ひとと鬼・幽霊・神との霊験的な出会い場所について分析した結果、ベトナムと日本の古典文学がインドと中国の仏教という共通の起源から、それぞれの歴史的条件や風土に適した発展を遂げて行ったことが分かる。以上に取り上げた「鬼退治」に関する各モチーフを比較すると、いずれも世界、また中国の説話、伝承を色濃く反映するモチーフであると言えるだろう。

ベトナムの漢文説話における「鬼退治」のモチーフに関する比較研究の目的はベトナムと日本の説話の起源を明らかにすることだけではなく、両国の民間文学の創造性、民族性を探究し、その特徴を明らかにするところにある。以上述べたように『嶺南摭怪』における「鬼退治」は、中国、日本の説話と比較すると鬼と格闘する場面がないという相違点がある。その理由はベトナムでは太古から鬼神を深く信仰し、また、人間にはできないことがらを鬼神に依頼することがあり、鬼神に助けられる王権は人々に信頼されるからである。そのため、ベトナムでは鬼とはむやみに格闘しない。神霊の力が協力することによって初めて鬼は退治されるのであるし、そして、人間の智慧で、鬼退治するのは日本と同様であるが、鬼退治をする人物の武器は中国と違って、杖、刀など普通の農具ではなくて、五つの糸、筆(ベトナム)、お米(日本)であった。また、ベトナムと日本の鬼魅退治の末語部の評語を分析した。

今回は、ベトナムの漢文説話における「鬼神」について概説した。「鬼退治」を中心に比較したが東アジアの漢文文化圏における韓国・朝鮮との比較研究には言及できなかったが、今後諸外国の研究者との協力により、漢文文化圏における新たな認識が得られることを期待する。

 

注と参考資料 

注:

1.『世界文学の中の日本文学 ―物語の過去と未来―』。第32回国際日本文学研究集会会議録。人間文化研究機構・国文学研究資料館。2008年。

2.河野貴美子:『日本霊異記と中国の伝承』。勉誠社。平成8年(1996年)。

3.小峯和明:『今昔物語集の世界』。岩波ジュニア新書。2002年。

4『越甸幽霊集』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.751である。

5.本稿に出た『伝奇漫録』は文学院が所蔵している『新編伝奇漫録』における『伝奇漫録』(漢文部分)である。番号はHN.257である。

6『雨中隋筆』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.1297である。

7DONG TRIEU (東潮)は地名で、ベトナム北部のQUANG NINH(広寧)省に属するところである。

8PHAM NHAN (范顔)というのは東潮で祀られいる神様の名前である。亡くなってから、鬼になって、女性が出産した血を食べる鬼となった。『公餘捷記』「范顔廟」。

9.『見聞録』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.1562である。

10『雲袋小史』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.872である。

11.武瓊:『嶺南摭怪』。漢喃研究所所蔵、図書番号:A.2914

12.小松和彦『鬼』、河出書房新社。2001年。

13.小松和彦『妖怪』、河出書房新社。2001年。

14.小松和彦『幽霊』、河出書房新社。2001年。

15.武瓊:『嶺南摭怪』。漢喃研究所所蔵、図書番号:A.2914

16.『公 』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.44である

17TRẦN THỊ AN: "Đặc trưng thể loại và việc văn bản hóa truyền thuyết dân gian Việt Nam". Luận văn Tiến sĩ. Hà Nội, 2000.「ベトナム民間伝説の流転と類型特徴」博士論文。ハノイ2000年。

18.小峯和明:『今昔物語集の世界』。岩波ジュニア新書。2002年。137ページ。

19.『婆心懸鏡録』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.2017である。

20NGUYEN THI OANHComparing Vienammese and Japanese Legends. The Japan Foudation newesletter.  Vol XX/No2. The Japan foundation. 1994; Ca tì tử (Otogiboco) và Vũ nguyệt vật ngữ (Ugetsumonogatari) với Truyền kỳ mạn lục 『伽婢子』と『雨月物語』と『伝奇漫録』との比較研究) .Tạp chí Hán Nôm (漢喃雑誌)4 番号、1995. 

21『桑滄隅録』は漢喃研究所所蔵、図書番号はA.218である。

22.林翠萍:「『搜神記』『嶺南摭怪』之比較研究」。国立成功大学中国文学研究所修士論文、中華民国八十五年(1996年)。

23NGUYEN THI OANH: 「ベトナム漢文説話における「雷神退治」のモチーフについての比較研究」『アジア遊学』、114番号、勉誠出版、2008年、7082ページの参照。

24."Di san Han Nom Viet Nam-Thu muc de yeu" 『漢喃遺産.提要書目』TRAN NGHIA, PROF.FRANCOIS GROS 編纂。NXB.KHXH 社会科学出版社。1993

25. "Tong tap tieu thuyet Han van Viet Nam"『越南漢文小説総集』。TRAN NGHIA 編纂、世界出版社。1997.

26 BUI VAN NGUYEN: "Viet Nam than thoai va truyen thuyet" 『越南神話や伝説』。Mui Ca Mau 出版社。1993.

27. 景戒:"Nhat Ban linh di ky"『日本霊異記』。訳者:NGUYEN THI OANH、文学出版社。ハノイ、1999年。  

28.関敬吾:『日本昔話大成』角川書店。1979年。

29.瀬川拓男・松谷みよ子:『日本の民話7妖怪と人間』角川書店、1973年。

30.松村武雄:『中国神話伝説集』社会思想社教養文庫、1976年。

31.内田道夫:「日本の説話と中国の説話―日本霊異記と今昔物語集を中心に-」『東北大日本文化研究所研究報告』五.六、1971年。

32 小峯和明:『今昔物語集を学ぶ人のために』。世界思想社。2003年。

33. 小峯和明:『今昔物語集の形成と構造』.笠間書院、1985年、<補訂版>1993年。

34.小松和彦:『妖怪文化入門』。せりか書房。2006年。

35.乾克己、小池正胤、志村有弘、高橋貢、鳥越文蔵:『日本伝奇伝説大事典』。角川書店。1988年。

36.王 良:  『六 小説 考』     社。台 北、1988

37.陽   『中 説 與 化』。  、台 北、1993

38. :『 史』 出。

Danh mục website